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緊急医療の実際
 緊急医療の対応は、特に大変だった。1980年のことである。
若い日本人がひき逃げ事故にあい、意識不明のままケニヤッタ国立病院に収容された。深夜だったが、すぐに入院先の病院をおとずれた。
診察すると麻痺もあり、上肢の舞踊様の異常運動もみられたが、担当医の脳神経外科教授は「何の異常も認められない。2〜3日で意識は回復する。」という簡単な説明だった。「これは大変」と判断した私は、病院側に極秘のうちに、ロンドンの脳神経専門病院への転院を計画。関係者にもその旨伝え、教授に談判。「退院許可は出せない。すべての責任は貴方にある。航空機の中で死んでもよいのか」という教授の言葉を無視し、ナイロビからロンドンへ強行移送。8時間後にロンドンのヒースロー空港に到着。ただちに待機させていた救急車で脳神経外科専門のイタリア病院へ。脳CTスキャンの結果、「硬膜下血腫」が認められ、ただちに手術。手術は成功し、その若者は10日目に意識を回復したのである。あの時、教授の言葉を順守していたら、その若者は植物人間か、今やこの世の人ではない。
私のこの快挙は後にNHKのドキュメンタリー番組で放送された。

精神病の扱い
 ケニア、ソマリアの紛争地域で、国境を侵犯した邦人がソマリア国境警備兵に逮捕されるという事件があった。その日本人の越境の理由に精神病の疑いが濃厚という見方があり、私もチャーター便で国境の町エルワクに飛んだ。エルワクの町にはケニア軍の最前線基地がある。戦車の姿こそ見えなかったが、アラモの砦のような岩で出来た要塞があり、ケニアの国旗とともに機銃の銃座があちこちにみられた。
我々が小型飛行機から降り、滑走路より100m移動するだけでも、兵士が警護にあたるほどの厳重な警戒振り。尋ねると草むらの陰にソマリア兵が伏せており、危険なのだと耳打ちしてくれた。そこは、まさに国境とは名ばかりの国境線の定まっていない紛争地域の真っ只中だったのだ。すぐに要塞の中で日本人救出作戦会議を開いた。「ソマリア側と直接交渉を行う」という我々の申し入れは、国境警備隊長の強硬な反対意見で退けられた。その意見は、「これ以上進めば、国境侵犯という名目でソマリア側に逮捕されることは明らかである。またソマリア兵が発砲するかもしれず、日本の外交官を危険な目にあわせたくない。仮にケニア兵士を護衛につければ、ソマリア兵との間で打ち合いとなり、必ず犠牲者が出る。そうなると、これが引き金になって、ケニア・ソマリア間の大規模な戦闘になる恐れがある」というものだった。
 この隊長の意見は、平和な日本で育った私にも、正しいものに思われた。日本人救出という人命尊重主義の行動が、何人もの理解を得るという考え方は、全く幼稚な考え方であることを思い知らされた。

帰国してから
 話は前に戻るが、激務のあまり、アフリカで狭心症の発作に見舞われ、第一線を退いた私は、比較的回復が早かった。引き続き外務省本省の医務室で、出国、帰国が慌しい外務省職員の健康管理に従事、国際協力事業団の顧問医も兼ねた。
自分自身の急病体験から、在留邦人が発病した場合の医療支援のために「広域医療圏」という発想を提案した。たとえば、アフリカ諸国で発病した場合、西欧諸国で二次、三次医療を展開出来る病院の開拓を行い、その連絡システムをつくりあげたのである。また当時、在外企業協会医療促進協議会が、海外での医療問題に悩んでいることを知り、この協会を手弁当で支援した。その努力が実り、外務省、厚生省、労務省の理解をうることに成功。1984年、「海外邦人医療基金」が財団として発足した。そして、私の提案がそのまま通り海外拠点として、シンガポールに日本人のための診療所の開設にもこぎつけた。現在ではマニラ(フィリピン)、ジャカルタ(インドネシア)、大連(中国)にも診療所を開設済みである。

熱帯医学専門医に

熱帯病の中で

危険な救出劇

緊急医療の実際

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