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危険な救出劇
戦争に伴う危険な救出劇も経験した。
タンザニア・ウガンダ戦争の戦禍にまかれ、首都カンパラ郊外で、パラボラアンテナを建てていた日本人数名が脱出に失敗、建設現場に取り残された。そして不運にも、1人の技術が高熱のあと意識障害をきたした。「貴館の医務官を大至急派遣してくれ」という緊急テレックスが在ケニア日本国大使館に入った。戦争中のため、やっと通じた電話では、病状からして、「熱帯熱マラリア」それも「悪性マラリア」らしく、ただちに治療が必要だった。途方にくれた私は、ウガンダ在住のイタリア人医師を探し出し、往診依頼をおこなった。翌々日の連絡で、初期治療に成功したらしく、意識を回復しつつあるということだった。
タンザニア・ウガンダ戦争は、タンザニアの圧勝に終わり、悪名高きアミンは敗走。予想外に早い終戦だった。私は外務省の係官を伴い、病人移送のため、ウガンダに向かうことにした。私達の乗り込んだ飛行機は、戦後第1便の民間機。40人位の乗客で、ほとんどが白人の報道関係者だった。私達の前に座ったデンマーク人は、前日ウガンダに向かった小型セスナ機が行方不明とのこと。「単なる故障でなく、恐らく打ち落とされたのだろう。暴徒化したアミン残党が、この民間機にもロケット弾を打ち込んでくるかもしれない。」何となくゾッする雰囲気になった。
飛行機は緑豊かな丘陵を越え、ナイル河の源流を横切り、みんなの不安を包んだまま、空港に無事着陸した。その瞬間、全員から拍手と感嘆の声が上がった。タラップを降りると空港はがらんとしていて、入国審査員もいなかった。私達は、戸惑いながらも他の外国人と同じく空港の外に出た。あらかじめ連絡してあった車が迎えに来ていて、すぐに出発。10分も走ったところで検問。ウガンダ人運転手は、空港に来る時にはなかったのにと、首をかしげ不安気だった。迷彩服を着た男達が大声で、私達の車に近づいて来た。彼らは戦勝に酔いしれるタンザニア兵。外務省の係官が、パスポートを見せながら「私達は日本の外交官だ。」と言った。しかし、どうも英語が通じないらしい。酒臭く、兵士というより暴徒に近く、ウガンダ人運転手は振るえていた。1人の兵士が後部にいた私に自動小銃を突きつけた。ズシンと重たく、不気味だった。一瞬、「ドイツのカメラマンが2人殺された」という機内の話が頭をかすめた。自分たちの立場を説明する何か良い方法はないか。「そうだ」、私は手荷物から聴診器を取り出し、それを見せた。するとその兵士は反射的に自動小銃を私の体からはずし、大声で何か叫んだ。すると木立の奥から上官らしい人物があらわれ、「何者か」と英語で尋ねてきた。九死に一生を得たとはこのことで、言葉が通じれば何とかなる。私はこのチャンスを逃すまいと「私達は日本人だ。日本の技術者が重症なので救助に来た医療班だ。」とむしろ荒々しく言った。その上官は黙ってうなずき、兵士に命令を下し、目礼するや木立の奥に消えた。「助かった」。どっと疲れが出た。同乗していた記者が「先生のおかげです。特に我々報道関係者は危ないのです。聴診器とはすばらしいアイデア。記事にします」とはしゃいだ。
道路のあちこちに戦車が残されていた。首都に近づくにつれ人の数が増え始め、車は思うように進めなくなった。「これがホテルです」という運転手の案内でロビーに入ると、家財道具を抱えた人々で騒然としていて、ホテルの機能は完全に停止。水道も出ず、電気も消えている有様。私達は、嫌がる運転手を激励し、一路郊外の建設現場に向かった。ものの30分走ると、丘の向こうに巨大なパラボラアンテナが見えてきた。建設現場近くに簡易宿舎があり、病人はその1室に寝ていた。衰弱しきっていたが、私達を見て笑みを浮かべた。診察の結果、多少黄疸があり、マラリアより急性肝炎と思われた。その夜、宿舎の近くで「バン、バン」という銃声が聞こえ、「ドン」という重火器の音がして人の声が響いてきた。どうやらアミンの残党狩りがおこなわれているらしい。私は初めて聞く銃声に、眠れない夜を過ごした。この時ほど、平和な国、日本のありがたさを身にしみて知らされたことはなかった。
翌日、空は真っ青で何事もなかったようにまぶしかった。私達は病人をタンカに乗せ無事ケニアに移送することに成功した。
出血熱騒動
1960年に登場したアフリカの殺人ウイルスとの出会いもあった。
1980年1月15日、ウガンダ領側に近いサバンナ地域、ケニア西部カカメガ在住のフランス人が発熱を伴う背痛、筋肉痛を自覚し、下痢、嘔吐、発疹の症状もあらわれ、首都ナイロビのナイロビ病院に収容された。入院当時、すでに重篤な出血がみられ、注射針の傷からも出血するという最悪な状態。入院わずか6時間後に死亡した。病理解剖所見で、肝臓の広範な壊死が認められた。その時は、重篤化した原因不明のウイルス病ということで一旦落ち着いたものの、それから10日ほど後、この患者の担当医が高熱に筋肉痛、関節痛、口の渇きなどがあらわれ、激しい頭痛と黄疸がみられるようになり大騒ぎとなった。
同僚の医師や病理学者は、その担当医師がフランス人患者と同じく悲劇的な死を遂げるものと絶望に陥った。ナイロビ病院のウイルス専門医のウガンダ人医師は、この2人の経過をみて、すぐに「マールブルグ病」の疑いを抱き、検体を米国CDCに送付すると同時に、南アフリカと西ドイツからウイルス専門医を招き、本格的な調査を始めた。続いて1月26日、最初のフランス人患者の看護にあたった看護婦が筋肉痛、咽頭炎、悪心、嘔吐に発熱を伴い、発病5日目に紅斑性発疹が出現し、この症例も二次感染の疑いが持たれ、また同時に検査技師らにも同様な症状があらわれることになり、病院内はパニックに陥った。
この頃、送付検体からマールブルグウイルスが検出されたとの報告が、米国CDCから入り、私も急遽外務省に「マールブルグ病発生」の情報を緊急打電するとともに、ナイロビ病院の医師と接触し、事後処理を相談した。何故なら、ナイロビ病院は日頃から私が日本人患者を送っているナイロビ最良の病院だったからである。
マールブルグ病発生の報は、信じがたい速さでナイロビ在留邦人の知るところとなり、私の医務室の電話は鳴りっぱなし。この事件の渦中、日本人患者をナイロビ病院から比較的施設の良い、アガカーン病院に振り分けるだけでも、私にとって大変な激務だった。
この間、120人にのぼる医療従事者、接触者が、患者との接触の程度によって、いくつかに区分わけされ、特に濃厚接触者は厳重に隔離され、検疫が実施された。その結果、約10人の擬似マールブルグ病患者を出したものの、マールブルグウイルスはそれ以上検出されず、幸い死者も出なかった。
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