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熱帯病の中で
東アフリカの表玄関、ケニア。日本の1.6倍の面積がある。1979年、私はすべての研究生活に終わりを告げ、首都ナイロビの在ケニア日本国大使館に赴任。エチオピア、セイセルズ、タンザニア、マラウイ、ウガンダ、ザンビア、マダガスカル、南アフリカ共和国の広大な東アフリカ全地域も兼任した。初めての仕事、ただがむしゃらに医務官の仕事に没頭しているうち、少しずつアフリカの問題点に目が向くようになった。

難民救済への挑戦
 当時、最大の問題点は、日本では知られることのない「飢餓や戦争による難民」の存在。心を痛めた私は、大使館の定例会議で「難民救済活動への取り組み」を医師として提案。勇気がいる発言だったが、斎木千九郎大使(故人)は、その場で快諾。これが私の国際保健医療協力への第1歩となったのである。
 現地新聞によると、ケニア・ウガンダ国境にポコト族が、ケニア・エチオピア国境にトルカナ族の難民がいて、栄養失調と感染症のため「民族の存亡の危機」にあるという。私は、現地アフリカ人(キクユ族)と領事部の係官2人を伴い、手始めにポコト族の調査に出た。4日分の食料と医薬品を積み、トヨタのランドクルーザーでナイロビを出発。ゲリラの出没情報がある危険地域では、大使のアドバイス通り、日本の国旗を立てて走った。しかし、ゲリラは日の丸の旗のことを知っているのかな、、、射撃の標的にされるのではないかと内心不安だった。道は次第になくなり、水が乾いて砂道になっている河の中を、車の轍の跡を追うように走り、やっとポコト族の部落にたどり着いた。
 飢えとは、こんなものか。痩せ細った人々、うつろな目、水で膨らんだ子供の腹(腹水)、、、ショックだった。何から手をつけてよいのやら、、、。我に返り、難民の向こうに赤十字の旗を見つけ、近づくとオランダ人の医師と看護婦が汗まみれになって診療中だった。私も迷うことなく診療を始め、気がついた時は夜。クタクタになって大地に寝転ぶと、ダイヤモンドのように光る星が目の前に輝いていた。「何と美しい空。それに比べ何と悲惨な人々。」
その後、トルカナ族の調査には小型セスナ機をチャーターし、5〜6回現地に向かった。
一度はプロペラが故障し、危うく命を落とすところだった。難民の悲惨さはポコト族よりひどく、麻疹、肺結核、寄生虫病で次々に死んでいくのを見た。まさに地獄。イギリスの宗教団体の診療所が、「診療の場」兼「墓場」になっていて、死者を弔うことも医師の務めになっていた。
 私は、この実情を、日本のテレビ局に流すと同時に、国際協力事業団に看護婦の派遣、民間から大量の医薬品の寄付を要請し、いずれも成功した。これが私の難民救済活動の始まり。この経験を通じ、「善意の人々がたくさんいること。人種の壁、国境を越えてボランティアが出来ること」がわかった。

在留邦人の医療
 私には、医務官としての公的な仕事以外に、アフリカ諸国に在住する邦人の健康管理もするという大事な仕事があった。その現実は厳しく、1979年から1982年の3年間で14人の邦人の死に立ち会うほど過酷だった。なかでもマラリアで4人の邦人をうしなったショックは大きかった。
この日常診療と難民救援活動が両立する訳がない。そして、ある日、南アフリカ共和国の仕事を終え、ケニアへの帰路の途中、航空機の中で胸痛を覚え、そのまま意識を失った。過労による狭心症の発作だった。私はただちに帰国を余儀なくされ、志半ばでアフリカ勤務を外された。

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