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熱帯医学専門医に
東京大学付属病院と聖路加国際病院で内科の臨床を学び、東京大学医科学研究所(医科研)で研究生活を送った。これらの施設は、日本を代表する臨床と研究のメッカ。多くの名医に指導を受け、私は恵まれた環境にあったと思う。なかでも医科研で感染症と寄生虫学を修め、日本初の「熱帯医学専門医」の資格を得たことで、いずれ熱帯地域で熱帯病の臨床に従事したいと思うようになった。

海外での初仕事
 医局は東京大学物療内科。その外勤先に東京共済病院があり、そこに4年間在席。何故か中川圭一院長(故人)に可愛がられ、感染症の学会に良くお供したものだ。1972年の夏。院長が突然、病室にいた私の肩に手をかけ、「ちょっと」と声をかけて下さった。「3ヶ月ほど冒険してみないかね。」私の人生を変えたドラマの始まりは、こんな簡単な会話だった。その冒険とは、海外での映画の撮影隊の健康管理の仕事。パリを出発し、イタリアを南下、船でギリシャから、トルコに渡り、ボスポラス海峡を経てシルクロードに入り、イラン、アフガニスタン、パキスタンを抜け、インドまでの15,000Hの長い道のりを車で移動。「陽は昇り陽は沈む」(日活)という映画を作るというのだ。
 私は、自分の心に潜む冒険心と好奇心をくすぐられ、その場で快諾した。映画監督は後に「キタキツネ物語」「南極物語」で有名になった蔵原惟繕氏。スタッフはアメリカ人、イタリア人の俳優を含め総勢20人。車はツウシボウ、ベンツ、ホンダなど5台だった。多くの危険を乗り越え、遥かなるシルクロードの道を走り、カスピ海の傍らを眺め、4,000m級のカイバル峠を越え、来る日も来る日も撮影、移動の日々。実に楽しい経験だった。幸い重病人もでず、全員無事。この冒険をきっかけに、私は海外での医療に深い関心を抱いた。

クモ毒の研究から
基礎医学への情熱も捨てきれず、医科研で細菌学のタンパク毒素分析手法を応用し、日本各地で刺咬病害を及ぼす有毒グモ「カバキコマチグモ毒」の分析に取り組み、4年をかけてこの研究に成功。これは、自分で言うのもおかしいが、世界初の珍しい研究だったので、東京大学医学部大学院より医学博士をいただいた。ある日、米国コロラド州立大学のTu教授から、1本の電話が、「あの研究論文を読んだ。非常に興味深い。自分の教室でクモ毒の研究を続けないか」という誘いだった。Tu教授は、世界でも有名な生物毒の大家なので、心動かされ、1978年、助教授として米国に留学することにした。余談になるが、後年、Tu教授はサリン事件に関わり、上九一色村の土壌からサリンの証拠をつかんだ人物。日本の学者は誰1人として土壌に注目しなかった。
渡米はしたものの、井の中の蛙。世界のレベルは高く、クモ毒の研究は更に精製度を要求され、予想以上に多くのクモ毒を消費した。そのため日本から持ち込んだ3,000匹の毒腺材料は、すぐに欠乏。クモ毒の致死活性の確認、マウスやイエバエのLD50などの毒性テストは完了したものの、精製毒の生化学的分析の過程で中断。更に実験を進めるには、クモが成熟する5月〜6月に帰国し、再び多量のクモを捕獲、毒腺を切り出す準備作業が必要。そう簡単ではないのだ・・。広大な米国、大陸的な発想、私には性格的にぴったりの国だったが、以上の理由で米国に残る理由がなくなった。そんな時、教授宅のパーティで「アフリカの睡眠病」の講演を聞く機会があり、研究に没頭していた私に、忘れかけていた熱帯病への情熱が、再び熱く燃え始めた。
 そして、偶然にも外務省に「医務官制度」があり、ちょうどケニア、メキシコ、リオデジャネイロのポストが空席という情報を得た。私は、迷うことなく熱帯病の宝庫、ケニアに渡ることを決意した。

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